ミナミアオカメムシはボスニア・ヘルツェゴビナの夢を見るか?

ボスニア・ヘルツェゴビナには、「カメムシを家の中で見つけると、その家はまもなく金運を授かる」という言い伝えがあるそうです。

カブトムシは元気です

 

昨日はジュラシックワールドの公開初日だったので、月末なので仕事休めないけど、なんとしても日付が変わる前に見なければ、と、レイトショーを観て帰って電気つけたらこんなことになっていた。(下の丸いのは昆虫ゼリーがひっくり返っている)

そういうわけなので当然こういうことになるわけで。

卵。

後で卵を隔離しようと思っていたら、どこか埋まってわからなくなってしまった。

もう、自然に任せよう。

 

なんか、ある程度卵を産ませたらオスとメスを隔離しておかないと収集がつかなくなるらしい。

さらに卵は別に隔離。つまり、虫かごが3個もいるわけですね。

それでうちは猫という名のモンスターがいるので、

(↑映画館で買ったタオル。Tシャツも買えばよかった、買おう、と映画を見てる間、思ってて、終わった後買いに行ったら、もう売店閉まってたのでもう一回行かなければならない)

 

カブトムシはテレビ台の下に隠しているわけだが、この状態が、しばらく、いや、卵を孵すなら1年以上続くわけですね。

元々テレビ台の下に入っていたものを、いい加減整理して所定の場所を決めなければ。

 

ところで、最近、ネットで「掃除が嫌いだったけど、掃除することを『自分の痕跡を消す遊び』と考えたら、俄然楽しくなって、仕事中も早く帰って痕跡消したいと思うようになった」という書き込みを読んで、なるほど、と思い、実践してみたところ、確かに、掃除してる時間が長くなったし、ダラダラ先延ばししなくなったし、普段から、髪の毛が落ちていたりテーブルが汚れたりしていると「いかん、こんなところに痕跡が…」と、まめにきれいにするようになった気がする。

ズボラな人間が、綺麗好きな人の思考を疑似体験するには一番いいのかもしれない。

とはいえ、この「自分の痕跡を消す」という感覚は突き詰めていけばキリがなく、ふと、「埃はそのままにしておいたほうが、さっきまで人がいたという痕跡がなくなるのでは?」とかいろいろ考えてしまう。

 

と、いうのも、今は一人暮らしなので、もう煩わされることもないのだが、身内に、とんでもない片付けられない症候群がおり、私は10年以上同じ部屋で暮らさなければいけなかったため、散らかってる部屋ほど最後にいつ人がいたのかわからないという意味では痕跡を消すのに都合がいいと知っているのだ。

ベッドの枕元に埃が雪のようにつもり、ポスターは一回貼ったら、どんなに趣味が変わろうと貼りっぱなし。

いや、それはよくあることなのかもしれないけど、なにがひどいかというと、寝具などを洗わないもので、枕元のポスターが得体の知れないカビだらけになっていてもそのままなのだ。

机はもはや学生ではなくなったにも関わらず、小学生時代の教科書が置いたまま。

本を買っては袋から出しもせず、ポイッと机あたりに放置し、何年も経過。

母がその袋を持ち上げると、朽ち果ててバラバラになってしまったそうなので、一体、そんなになるまで放置するくらいなら、そもそもなぜ買ったのかと。

 

不謹慎な話だが、小学生で行方不明になった娘の机をそのままにしています、と言っても信じるような有様であった。

ああ、もう本当一人暮らしできるようになってよかった。

二度と戻りたくない実家。

 

とにかく、そんなわけで、「自分の痕跡を消す」というのは、どの段階からの痕跡を消すのか、そもそも痕跡というか、消さなければならないのは痕跡ではなく、生活感なのか?

最初からこの世に存在しなかったようにしなければならないのか?

いや、しかし、なんのために?

と、哲学的な思想がぐるぐると渦巻くのである。

そのジレンマは元スレッドでも話題にでていたので、結局生きることって、働いて食べて寝て、自分の排泄物とかで窒息とかしないように、掃き出して、掃き出して、また溜め込んで、とかそういうことの繰り返しってことなんだよね。

 

次回は、カブトムシとゴキブリの違いについて

いや、大体一緒でしょ?どう見てもゴキブリじゃん、これ。